「展覧会に行きませんか?」
朝食の席で僕が悠季に言うと、彼はきょとんとした顔をした。
まあ、そうだろう。突然の話なのだから。
昨夜、僕はオーケストラの協賛者、つまりスポンサーの企業の人との会食があった。そしてスポンサーになって貰っているだけでなく、企業CMに出演している関係で、ある展覧会のチケットをを貰ってきたのだ。
「招待券をいただいたのかい?」
「ええ」
「何の展覧会?」
「バロックとルネサンス文化を検証する、というのがコンセプトです。絵画だけではなく、工芸品な家具なども展示される予定だそうですよ」
「バロックかあ。昔苦労したことがあったなぁ」
どうやらイタリア留学していたときのことを思い出しているらしい。
悠季は学生時代には美術館や展覧会などには興味がなかったようで、留学中バロックの解釈を本の中の知識としてしか理解しておらず、それをパパエミリオから指摘された。その無知をなんとかしようとローマの町の中をあちこち見て回ってヒントを見つけようとしていた。たまたま彼の姿を見つけた僕は思いがけないデートを楽しんだものだが。
だから彼がプロとして立っている今は、曲の背景には作曲者のいた時代の文化や雰囲気が大切だということを痛感して、なるべく多くの芸術にアンテナを張り巡らせようとしている。
当然僕もそれに協力するに吝かではない。
機会があれば悠季を誘い出してもらってヨーロッパの音楽の下敷きになっている様々なことを教えてあげるのだが、打てば響く反応をしてくれる彼とのデートとなるのが楽しくてたまらない。
「何枚もいただいたので、そちらはオーケストラの諸君の中から希望者をつのって差し上げようと思っています。ただこの二枚は別物なのですよ。入場時間が決まっていますので」
「それは珍しいね、展覧会に入場時間が決まっているなんて。ふつうは開催期間内に行けばいいはずだよな」
「ええ。実は展覧会の協賛をしているスポンサーがプレオープンとして1日貸しきって招待するものでして、時間が決まっているのは混雑をさけるために割り振っているからなのですよ」
「へぇ!それじゃ入場人数が限られた展覧会ってわけなんだ」
「そうですね。この時間内に入りさえすれば、あとは何時間でも絵を見ていられるようですがね」
「ふうん。それで、いつなの?」
「来週の火曜日です」
悠季の頭の中ではあれこれと予定を思い浮かべているのだろう。
しかし来週の予定は問題ない。その日に大学のレッスンは入ってない。コンサートの打ち合わせはもう少し先だし、オーケストラの練習もない。
スケジュールはすでに宅島に問い合わせ済みである。悠季に尋ねたのは念のため。万一の突発の用件が入っていないことを確かめたかったからだ。僕の方も夕方のフジミの練習までは空いているから問題はない。
「君が誘ってくるということは、お勧めということなんだろう?」
上目遣いににっこりと笑って言う。その巧まざる艶にどきりとした。
「ええ、まあ」
「久しぶりのデートだね。楽しみにしているよ」
「はい」
僕はうなずきながらも気がそぞろになっていた。
「ところで悠季」
そっと手を出して彼の手を取ると、ぽっと目元が赤らんできた。どうやら僕のメッセージはストレートに届いたらしい。
そのまま僕たちはまた寝室へと戻ることになった。
こうして僕たちの来週の予定は決まり、上野にある美術館へと出かけることになったのだった。
以前、悠季は『僕っておしゃれなたちじゃないから』などとよく言っていた。
しかし最近は多くのコンサートを開くようになっているためか、身なりのセンスも上がってきているようだ。
オーケストラに参加してコンマスとなり、マスコミやファンの者たちに会う機会が多くなってきたから、身なりに気を配らないというわけにはいかなくなっているということもあるが、自信が彼の服にも影響を与えているということもあるだろう。
以前は学校の教師だったこともあって、人の目にあまり留まらないような無難な服を身につけていたが、プロの演奏家となり自信を持って自分の好みを前面に押し出すようになったということが大きい。当然似合うものをチョイスして垢抜けてきているのだ。
もっともブランドや流行について興味がないのは今まで同様のようだが。
今身につけているものは、以前僕と一緒に出かけていったときに選んだものだ。緑系の着心地のよいジャケットとズボン。コートはキャメル色。
「さてそろそろ出かけようか」
と言ってこちらを向いて、おや という顔をした。
実は僕が今日着ているものは悠季にあわせているものなのだ。
色は違う。黒系のコートに焦げ茶色のジャケットとツイードのズボン。しかし型は違っていても、同じブランドなのだ。二人で並べばわかる人にはわかるかもしれない。僕たちがペアになっていることを。
実はこれは僕の確信犯だ。さりげなく彼が着ていくものを聞き出していたのだから。
悠季はしばらく僕をながめていたが、何も言わずに玄関に向かっていった。
普段は他人の目を気にする悠季だが、どうやら今日がデートということを考慮して寛大にも黙っていてくれるらしい。
展覧会はとても楽しかった。
悠季をさりげなくエスコートして、絵に対して様々な知識を披露すると楽しそうに聞いてくれる。主催者の意図と絵の並べ方の意味などは特に面白がってくれていた。
並べられている作品も興味深いものが多く、これなら足りないチケットを購入して楽団員全員に配ってもいいかもしれない。演奏によい影響を与えるに違いない。
そんなことを考えながら巡っていき、ふと気がつくと僕たちの背後にさりげなくついて歩いてくる者が何人かいる。
ほとんどが女性だったが、どういうつもりなのか。デートを邪魔するつもりかと思うといささか気に障る。
むっとしたところで、悠季がわき腹をつついてささやいてきた。
「圭、ほうっておこうよ。僕たちに声をかけてたり邪魔することもないんだから。君の解説が下手な音声ガイドより面白いから聞きたいんだよ」
「君はよろしいのですか?」
「ちょっとは気になるけど、それより、君がかっこよくてすごい男なんだって内心で自慢できるから、いいかも」
「おや」
そこで僕たちは気にしないことにして、そのまま展覧会を楽しむことにした。
展覧会を見た後、まだ帰るには少々時間が余っていたので、そのまま上野近辺を歩くことにした。
「一度奏楽堂に入って見たかったんだ」
ああ、あそこは確かに一見の価値がある。
「では行きましょうか」
再び僕の案内で奏楽堂の中を案内することになった。
母校である芸大の近くにある奏楽堂は、明治23年に作られた日本最古の木造の洋式音楽ホールで、国の重要文化財になっている。
二階にある音楽ホールは、かつて滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台なのだ。
悠季は明治時代のレトロな装飾が気に入ったらしい。ここは芸大のもちものだから、生徒たちが演奏会を開催することもある。他にもさまざまな演奏会が廉価で提供されているのだ。
「今日は・・・・・『現代作曲家の佳品?』ですか。聞いていかれますか?」
「そうだね。入ってみようか」
そうして奏楽堂二階のコンサートホールに入った。
コンサートは楽曲の選択が興味深かった。日本やヨーロッパのさほど有名ではない作曲家の小品を掘り起こして演奏していたのだ。中には僕も知らないものもあって、我々のオーケストラでもやってみようかと食指が動いた。
だが、楽曲の面白さに対して、演奏のほうはさほど出来がよくないように思えた。、最初の曲はまだよかったが、曲が続いていくにつれて緊張しているのかそれ以外の理由なのか、演奏に精彩が欠けているように思えた。
「あまり練習をこなしていなかったのかな?」
コンサート終了後、立ち上がりながら悠季も僕と同様の感想を述べていた。
「そりゃ、今一押しのオーケストラのコンビが聞きに来ているとなれば、学生どもも緊張もするさ」
不意に僕たちの背後から声がかけられた。振り向くと、そこにおられたのは僕の恩師である南郷師だった。
「ご無沙汰しております」
僕たちは近寄っていき挨拶をした。
「これは先生の主催だったのですか?」
「いや、学生の企画だ。ただ教え子の作品も演奏されると聞いたので聞きに来たんだが。それで、二人の目的は?オーケストラへの勧誘かい?」
「偶然です。展覧会に出かけたついでに回ってきただけのことです」
「そりゃ、期待していた連中は気の毒に」
「そうなのですか?」
「舞台裏でスカウトに来たと騒いでいたみたいだぞ」
そのような期待をされてもこちらには関係ない。
「これから二人はどうする予定だ?時間があればつきあわないか」
くいっと片手で杯を干すジェスチャーをした。
酒豪であるこの人に付き合うことになれば、酒に弱い悠季は困るだろう。
「あいにくと夕方から用事がありまして」
「ふうん?」
疑わしそうにしているが、本当のことなのだから問題ない。
「桐ノ院君はフジミの練習があるんです。あ、フジミというのはアマチュアオーケストラのことですが」
悠季がフォローにまわってくれた。
「二丁目楽団だな。覚えているよ」
南郷師はうなずいた。
「まだ続いていたんだな」
「あれは僕の宝物ですから」
僕の言葉に教授はにやりと笑い、それからくるりと悠季に向き直った。
「ところで、守村君」
「は、はい」
「先日リールでコンサートを開いていただろう?」
「はい。演奏しましたが」
「たまたまそこに行っていてな。時間があったので聞かせてもらった。いい演奏だったよ」
「どうもありがとうございます!」
悠季はとてもうれしそうに礼を言った。
「挨拶するつもりだったんだが、残念ながら時間がなくて寄らずに帰らせてもらった。で、話なんだが」
あいかわらずのせっかちさだ。
「最近出来た曲が君の音で聞いてみたくなった。弾いてみたくはないか?演奏を依頼したいのだが」
悠季はひどく驚いた顔をした。高名な作曲家からの献呈となれば、どれほどの名誉か。
「ありがとうございます!僕のような若輩者の演奏に多大な評価をいただいて、とてもうれしいです」
「その曲のはなしをしたいと思うんだが、君だけでもこれからどうだ?」
思いがけない言葉にぎょっとなった。
「教授。申し訳ありませんが、悠季は我々が立ち上げた事務所に所属しています。契約については」
「ああ、いつも忙しいと逃げまわり、恩師の誘いを何度も断っている嫉妬深いやつがくっついていたのを忘れていた」
「・・・・・失礼しました」
「冗談だ。俺もまだ馬にけられたくない。今日は二人仲良くさっさと帰れ。近いうちにまた連絡する」
そう言うとからからと笑いながら南郷教授は立ち去った。
「・・・・・からかわれたのかな?」
「飲みに誘った件はジョークでしょうが、曲については本気だと思われます。至急宅島に話を入れておかなくては」
「そうかぁ。うーん、うれしいしありがたいけど、緊張しそうだ」
「いずれにせよ先の話です。とりあえず帰りませんか?」
「ん。そうだね」
悠季はほっと胸をなでおろし、帰宅の途についた。
ちなみに余談ではあるが、後日美術館から他の展覧会での音声ガイドをやらないかという問い合わせがあった。 解説を聞いていた者の中に関係者がいたものか。
当然、速攻で断った。
僕は指揮者であって、声優でもアナウンサーでもないのだから。
僕が話しかけ聞いてもらいたいのは悠季だけであって、大勢の視聴者に聞いてもらいたいわけではない。
「でも、圭の音声ガイドだったら、ちょっと聞いてみたかったかも」
いたずらっぽく微笑みながら言った悠季の言葉にいささか揺らいでしまったのは、僕だけの秘密である。
久しぶりに甘そうな話を書いてみました。
あまり甘くはないかもしれませんが。(苦笑)
2014.12/22 UP